我が家には50年以上の木々たちが庭の所々に鎮座しています。

数年に1回は剪定をしますが、家族の木々への視線がそれぞれ。

日陰になるけど、お陰で夏の日差しを和らげてくれるからありがたい。
枝をもっと切ってすっきりしたい。
根元から切れば庭が明るくなる。

・・・など、どの意見も長所と短所が入り交じり正解より照らし合わせが難しい。

来宮神社の大楠に圧倒されましたー

 

こんにちは。
店長のサガワです。

 

自分の視線の先にどんな想いがあるか。

観賞用、風よけ、記念樹、歴史、心地よさ・・・同じ空間で共に育ってきていると植物も家族のような関係。

剪定するにあたり、家族一人一人の視線の先にあるそれぞれの想いに気づく機会になりました。

 

視線といえば、日常の出来事や自分の身体に対してどんな視線で見ているか、も同様なのでは。

 

思い込みは自分では気づかないもの。

自分の視線が自分をしばるものだったり、限定するものなら、出来事や人を通して視線が広がる方が生きやすくなる。

 

身体がつらい、疲れがたまる・・・というとき、自分の身体を自分がどう見ているか見つめ直すのもおすすめです。

仕事内容や家庭の状況に自分が合わせなくてはならない場合もあるでしょう。

しかし、その環境が自分の成長や気づきにつながったり、思わぬ自分の才能発見につながったりしている場合、新たな視線で自分の身体に対峙できます。

 

視線が自分に向いているときのAさんは自分との対話はこうなります。
例「なかなかやるじゃん、自分。明日のためにも身体のコンディション整えないとね。」

視線が他人に向いているときのBさんは自分との対話はこうなります。
例「また私ばかり。だから身体がつらいのかも。どうすればいいのかな。」

 

私は以前Bさん側のタイプでした。今もときどきBさんになります。

でも、Aさんの視線を持っていると何より自分が疲れない。

そして切り替えが早くなる。
同じ想いに引きずられず次の瞬間を大事にできることに気づきました。

 

庭の木も一部ばっさり剪定され、剪定した本人はすっきり。
もう少し残してほしかった私はどんより。

しかし今朝その木からとてもステキな鳥の鳴き声が聞こえてきたのです。

まるで木が「心配なさんな。また枝を伸ばすから。」と鳥のさえずりを通して代弁してくれたかのようでした。

 

そうか!

木に「かわいそう」という視線を送るのではなく「たくましい君ならまた新たな枝をつけるの楽しみ」という視線を送ればいいのか!

 

皆様も自分の身体に「君ならきっとこれを乗り越えられるよ。」と希望の視線を送って実験してみましょう。

私も日々実験中です。